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解剖学理論を基盤とした臨床指圧
── 触れかたと押圧の理、立体的アプローチの探求

ある大学の講義で用いたスライドと、その解説です。全44枚。
触れることの科学から、連結圧の生体力学、三次元的アプローチまで。
あん摩マッサージ指圧師 黒澤一弘(触芯会)

はじめに

手は、押す道具ではなく、聴く器官である

解剖学理論を基盤とした臨床指圧

「触れかた」が先に置かれている理由

解剖学理論を基盤とした臨床指圧
スライド 1

この日の話は、指圧という手技を紹介するためのものではありません。副題に並ぶ二つの語 ── 触れかたと押圧 ── の順序に、全体が畳み込まれています。

ふつう指圧といえば「押すもの」だと思われています。コリを押し、痛むところを押し、強く押せば効く、と。私は、その前提を一度ひっくり返すところから始めます。指は、押すための器官である前に、感じるための器官であり、感じ取ったものに応答するための器官である。書籍の中心命題「手は、身体を聴くためにある」が、そのまま副題の順序になっています。

ただし、誤解を一つ潰しておきます。「聴く」を先に置くことは、「押してはいけない」「力は要らない」という意味ではありません。押すことは否定されない。押しながら聴き、聴きながら待つ。問われているのは圧の有無ではなく、その質と態度のほうです。

そして、ここでいう「聴く」は神秘的な感受性のことでもありません。皮膚の温度、筋の張り、呼吸の揺らぎ、ふっと緩む瞬間 ── 目には見えにくいけれど、確かに観測できる身体の現れに注意を澄ませることです。神秘化もしない、機械論にも還元しない。その中間で踏みとどまるために、解剖学が土台に要ります。「立体的」と掲げられているのは、体表を平面上の点として扱わず、深さと方向を持つ構造として扱う、という宣言です。

さらに詳しくは、書籍の序章に書いています。

自己紹介

肩書きは、権威ではなく責任の所在

自己紹介
スライド 2

この一枚を、経歴の誇示として読まないでほしい ── 書籍にも、同じ断りを置きました。意味があるのは肩書きの数ではなく、三つの層が一人の術者の中に同居している、その一点です。日々、現場で人に触れ続ける手。解剖を教える知。職能団体として業界の責任を負う立場。この三つが重なるとき、話される言葉の性質が変わります。

国家資格者であるということは、解剖学・生理学・病理学・衛生学・関係法規を学校で修め、国家試験を経たうえで人の身体に触れている、ということです。この講義が繰り返し説く「構造を学んでから触れる」という姿勢は、心構えの問題である前に、この制度的な前提から始まっています。

そして、ここに施術年数や症例数は並びません。肩書きは治療効果を保証しないからです。挙げられているのは、資格と所属という確認できる事実だけ。三層が重なることが裏打ちするのは効き目ではなく、解剖学的な厳密さと、安全 ── この二つです。「だからすごい」ではなく「だから安全に語る責任がある」。触れることの非対称性を後半で説く人が、入口で権威を誇示したのでは、話の背骨が折れてしまう。自己紹介の一枚は、そういう自制の一枚でもあります。

さらに詳しくは、書籍の第0章に書いています。

あん摩マッサージ指圧師

年号を三つに分けて覚える、その理由

あん摩マッサージ指圧師
スライド 3

この一枚でもっとも気を遣っているのは、年号です。指圧の法制化は「1957年」と語られることがあり、私自身、かつての資料ではそう書いていました。けれど法令の歩みを確かめ直すと、そうではない。法律そのものが生まれたのが昭和22年、「指圧」の語が法文に書き込まれたのが昭和30年の改正、その語が題名に加わったのが昭和39年です。

年号がいくつも並ぶのは、指圧が一度の立法でぽんと生まれたのではなく、戦後の法整備のなかで段階を踏んで位置づけられていったからです。ですから「指圧という単独の資格が生まれた」という言い方は、この経緯と合いません。あん摩・マッサージ・指圧の三手技は、一つの免許の中に統合されています。

三者の対比も、断定ではなく概観として置かれています。求心性・遠心性といった区分は流派や文献で記述にずいぶん差があり、書籍では「一般に〜とされる」という水準にとどめられています。指圧を語ることは、あん摩・マッサージを下に見ることではありません。確かなのは、資格の正式名称と、一つの免許に三手技が含まれるという制度の事実のほうです。

そして、資格は効果の保証ではありません。指圧は医療の診断・治療の代替ではない ── この線引きも、制度の話と同じ場所に置かれています。

最後に「押して、待って、離す」。この「待つ」が、ここから先の話のすべてにかかってきます。

さらに詳しくは、書籍の第0章に書いています。

はじめに:指圧の心と科学の融合

「精神論ではない」と言い切るための順序

はじめに:指圧の心と科学の融合
スライド 4

「指圧の心 母ごころ、押せば生命の泉湧く」── 浪越徳治郎の言葉として知られる句です。ここで帰属を丁寧にしておきます。「母ごころ」は浪越の語です。それを臨床倫理の核として読み直すのは私の解釈であって、浪越自身が倫理学の定義を述べたわけではありません。浪越に帰せるのは、指圧を体系化し世界に広めた人であること、そしてこの言葉まで。指圧はあん摩・マッサージという素地の上に育った手技ですから、手技そのものを一人で発明したとまでは言いません。

その読み直しを平易に開くと、三つになります。相手を自分の理屈に従わせない節度。相手の苦痛を、自分の能力の証明に使わない慎み。「自分が治す」という傲慢を抑え、相手の身体がもともと持っている調整力に敬意を払う態度。触れる側は、触れられる側より常に強い立場にあります。その非対称性を自覚して、みずから抑制する内的な規律 ── それが、臨床の言葉に置き換えられた母ごころです。感傷や情緒のことではありません。

では、なぜ「単なる精神論ではない」と言えるのか。ここで神経科学の機序 ── マイスネル小体やC触覚線維 ── は、まだ持ち出されません。まず、触れ方が結果を物理的に分けるという因果を置く。仕組みの説明は、そのずっとあとから来る。この順序を守ることが、以降の全体を貫く作法です。

さらに詳しくは、書籍の序章・第0章に書いています。

第1部 触れることの科学

安心は、どこから生まれるか

第1部

押す前に、触れることから始めます

第1部
スライド 5

本題の最初に置くのは、押し方ではなく触れ方です。順序には理由があります。時間の上で、触れることは押すことより先に起こる。そして相手の身体は、こちらが強さを調整しはじめるよりずっと手前で、「この手は安全だろうか」という問いへの答えを、もう受け取っています。技術の優劣ではなく、起こる順番の話です。

この部は、その順番どおりに四つを辿ります。まず、最初の一触れがなぜ分岐点になるのか。次に、触れている側の指の中で何が起きているのか——指先の解剖です。三つめに、触れられている側の皮膚と脳で何が起きているのか——安心の神経科学。そして最後に、触れている人自身の在り方を、浪越徳治郎の説いた「母ごころ」と「集中の原則」から、どう手に落とすか。

あらかじめ一つ、お断りしておきます。ここで扱う内容には、教科書に載る確立した知見と、有力ではあってもまだ仮説の段階にある枠組みとが混じります。同じ確かさで並べてしまわないよう、そのつど確度を断りながらお話しします。そして、お伝えするのは心身をいたわるための触れ方であり、医療の診断や治療の代わりにはなりません。

さらに詳しくは、書籍の序章・第1章に書いています。

「触れる」という行為の重要性

最初の一触れが、分岐点になります

「触れる」という行為の重要性
スライド 6

なぜ「第一歩」と言い切れるのか。人の身体は、施術が始まる前から、無意識のうちに「この人は、この場は、この手は、安全だろうか」と確かめ続けています。最初の一触れは、その問いへの最初の、そして決定的な答えになります。ここで「危険かもしれない」と受け取られれば、その後どれだけ丁寧に押しても、受け手は警戒を引きずる。逆に「安全だ」と受け取られれば、身体は圧を受け入れる側へ開いていきます。分かれ目は、強さの調整に入るよりずっと手前にあるのです。

ただし、誇大にはしません。一回の失敗ですべてが台無しになる、という話ではない。気づいて、触れ直す。それはいつでもできます。稽古とは、その触れ直しの循環を回せるようになることです。

もう一つ。触れた瞬間に相手がこわばったとき、「この人は硬い」と考えないでください。防御反応は、わがままでも性格でもなく、不意の接触から身を守る正常な反応です。ですからそれは相手の問題ではなく、自分の手への、身体からのフィードバックだと読む。すると意識は、相手を責める方向ではなく、自分の手を調整する方向へ向かいます。相手を自分の理屈に従わせない節度の、いちばん最初の現れです。浪越徳治郎の遺した「母ごころ」を、私はそういう節度として読み直してきました——これは浪越の原語ではなく、私の解釈です。

さらに詳しくは、書籍の第1章に書いています。

触れ方による効果の違い

防御を招くのは、強さではありません

触れ方による効果の違い
スライド 7

粗雑な触れ方が呼ぶものを、二つの層に分けて見ます。一つは、触れられた瞬間に筋がキュッと硬くなる、速く無意識の反射。急で予測できない刺激への防御性の筋収縮で、これは確立した神経生理の知見です。もう一つは、呼吸が浅くなり全身が緊張へ傾く、やや遅い警戒。二つは連動します。特定の脳内回路を名指しする説明はいたしません。確かに言えるのは、この現象のところまでです。

引き金は、強さよりも、変化の立ち上がりの急さ、予測できるかどうか、接触面が安定しているか。接触面には、誰でも確かめられる単純な物理が働いています。圧力は力を面積で割ったもの。指先一点で当たれば同じ力でも一点の圧が高くなり、刺激は鋭くなります。指腹から指の付け根の関節までを面で沿わせれば、それだけでなだらかになる。「カーブに沿わせなさい」という教えに、神秘的な意味は要りません。(予測できるほど防御が起きにくいという点は、指圧の接触そのものを調べた研究がまだ乏しく、観察される傾向としてお話ししています。)

では、準備が整ったことは何で分かるのか。いちばん頼りになる合図は、呼吸が一段ゆっくりになり、吐く息が長くなることです。触れて、そこまで待ってから圧へ進む。ただし、繊細に触れれば必ず緩むとも申しません。痛みへの恐れや過去の経験から、警戒の解けない方はおられます。安心は引き出すものであって、強制するものではありません。

さらに詳しくは、書籍の第1章に書いています。

「感じる指先」の解剖学と神経科学

押し込むほど、指は鈍くなります

「感じる指先」の解剖学と神経科学
スライド 8

ここからは、触れている側の指の中を見ます。前の一枚が「相手にどう届くか」なら、この一枚は「こちらが何を受け取れるか」。同じ一つの触れ方が、安心と触知という別々の効能を、同時に生んでいます。

マイスネル小体は、速順応1型に分類される機械受容器です。「速度検出器」という呼び名は、神経の伝わりが速いという意味ではありません。皮膚の変形の変化率に応答し、静止するとすみやかに黙る、という応答特性のことです。位置も正確に。表皮の中ではなく、表皮のすぐ下の真皮乳頭にあります。

ここから逆説が出てきます。強く押し込んで止めるほど受容器は順応し、情報は減る。深さではなく、密着したままごく小さく皮膚をずらすこと——垂直の押し込みではなく、接線方向のずれ——で、情報は立ち上がります。接触面を広げれば、同時に働く受容器の数が増え、微弱な情報が埋もれにくくなります。

指紋については、書き分けが要ります。隆線が微小な振動を増幅するという研究はありますが、増幅された帯によく合うのは高周波で、対応するのはパチニ小体のほうでした。「指紋がヨレを増幅してマイスネルへ送る」という一本の因果は断定できません。確かなのは、指腹を面でなめるように当てると微細な情報が増える、という実践上の有用性です。「スキャン」も構えの話であって、断層を撮る装置の比喩ではありません。

さらに詳しくは、書籍の第2章に書いています。

「感じる指先」の解剖学と神経科学

快さの条件は、すべて「中庸」です

「感じる指先」の解剖学と神経科学
スライド 9

指の側から、皮膚の側へ話を移します。ここで一つ、解剖学の事実を押さえてください。C触覚線維は、うぶ毛のある皮膚に分布し、手のひらや足の裏にはほぼありません。つまり、圧をかける施術者の母指や手掌にはほとんどなく、目を覚ますのは受け手の腕や背中の側です。施術者の指で聴き、受け手の有毛部へ安心を届ける——この非対称が、指圧という営みの姿だと考えています。

条件は三つ、いずれも中庸です。速すぎず、冷たすぎず、強すぎない。速度は逆U字を描き、真ん中あたりで最もよく発火すると報告されています。温度は皮膚温に近い温かさ。圧は、押し込む圧ではなく、ごく軽い、動きのある接触です。この「撫で」と、指圧の「押圧」は別の系統に属します。ここまでは、人の神経線維から一本ずつ直接記録した実験に支えられた、確立に近い知見です。

一方、その先は慎重に扱います。C触覚線維の活性化からオキシトシンの分泌へ、そして不安の軽減へ、という一続きの因果を、人において定量的に示した証拠は、まだ弱いのです。末梢でオキシトシンを測ること自体にも方法論の議論があります。ですから断定を一段弱めて、こう申し上げます——やさしい撫では、オキシトシン系を介して不安の軽減やリラクセーションに関わっていると考えられています、と。効果の根拠として、この物質名を前に出すことはいたしません。

さらに詳しくは、書籍の第3章に書いています。

「感情ルート」を担う C触覚線維

数値の揺れは、丸めずに持ちます

「感情ルート」を担う C触覚線維
スライド 10

前の一枚では秒速1〜10センチ、この一枚では秒速3〜5センチ。同じ講演で違う数字が出てくることに、気づかれた方がおられるかもしれません。正直に申しますと、私自身の資料の間でも、この値は揺れています。

これは書き間違いではありません。逆U字の「山の幅」を語れば1〜10センチ、「頂上のあたり」を語れば3〜5センチ。どちらも矛盾なく成り立ちます。最適な速さは、人によって、身体の部位によって、その日によっても揺れますから、どちらか一方へ丸めず、幅のまま差し出します。数値の幅は科学の欠陥ではなく、科学が誠実に語っている姿だと思っています。

手で確かめる方法は、ごく簡単です。前腕の内側に15センチの区間を決め、5つ数えながら一定の速さで撫でる。それでおよそ秒速3センチです。一度ご自分の手で較正しておけば、あとは身体が覚えます。

「大切にされている」「守られている」という感覚まで話を伸ばすとき、確かさは一段落ちます。心地よさが自己肯定感へ翻訳されていく過程は、神経の記録ではなく、心の側の話だからです。そして、やさしい撫でが誰にとっても必ず安心になるとは限りません。触覚過敏のある方や、つらい経験をお持ちの方では、この条件を満たす撫ででさえ侵入と受け取られることがあります。同意と、反応の観察を最優先にしてください。

さらに詳しくは、書籍の第3章に書いています。

皮膚は“第二の脳”

「第二の脳」は、比喩として使います

皮膚は“第二の脳”
スライド 11

言葉の強さに、留保を添えておきます。「皮膚は第二の脳」というのは、解剖学の定義ではなく、比喩です。皮膚は、脳のように思考し、記憶し、判断する器官ではありません。

比喩の下にある確かな核は、三つです。第一に、皮膚は身体で最大の感覚受容面であること。第二に、皮膚と神経系が、発生の出どころを共有すること——外胚葉という一枚のシートの一部が内側へ折りたたまれて神経管となり、脳と脊髄が育ち、折りたたまれずに外へ残った部分が表皮になります。第三に、触れられた情報が、情動や社会性に関わる脳の領域へ届くこと。この三つを「もう一つの脳のように大切だ」と縮めたのが、この呼び名です。

ついでに、混同しやすい点を一つ。「第二の脳」という言葉は、医学書でも一般書でも、腸を指して使われることのほうが多いようです。腸には独自の大きな神経のネットワークがあり、脳と双方向に対話しているからです。皮膚をそう呼ぶのは、それとは別の比喩ですので、「感情を受け取るセンサーとしての」という限定を添えて使うことにしています。

では、手にとって何が変わるのか。皮膚を、筋やコリへ到達するための通過点として扱わなくなります。触れたその面が、すでに情動の入口である。だからこそ、最初の一触れの質が、押圧の質と同じだけ問われるのです。

さらに詳しくは、書籍の第19章に書いています。

前頭連合野

二つのルートは、脳の別の場所へ届きます

前頭連合野
スライド 12

図が細かいので、見ていただきたい線は二本だけです。

一本目、情報ルート。指腹などの毛のない皮膚の受容器から、Aβ線維という太い有髄線維が、毎秒35〜75メートルという速さで信号を運びます。脊髄の後ろ側の経路を上り、中心溝の後ろ、一次体性感覚野へ届きます。ここには体部位局在があり、指や口唇の領域が不釣り合いに広く取られています。何が、どこに、どんな形で触れたか——見分けるための便です。

二本目、感情ルート。うぶ毛のある皮膚から、C触覚線維という無髄の細い線維が、毎秒0.5〜2メートルというゆっくりした速さで運びます。行き先は一次体性感覚野ではなく、島皮質や帯状回のあたりと考えられています。何に触れたかではなく、どう感じたかを運ぶ便です。

確かさの度合いは、二本で違います。Aβの経路と一次体性感覚野の対応は、確立した神経解剖です。C触覚線維が島皮質へ投射して心地よさを生むという機能の割り当てのほうは、脳画像研究にもとづく解釈を含みますので、中くらいと見ておいてください。

そして、優劣ではなく分業です。Aβを鈍い道と見ないこと。一度の接触で、私たちはこの二便を同時に出しています。触知の精度と、相手の安心。この二つは、取り引きの関係にはありません。

さらに詳しくは、書籍の第2章・第3章に書いています。

タッチの科学的効果(心)

「確認されています」を、いったんほどく

タッチの科学的効果(心)
スライド 13

前の三枚で、触れられた感覚が皮膚から脳の情動に関わる領域へ届くまでの道すじを見てきました。ここからは、その先――身体の内側で何が動くのか――へ話を移します。

はじめに、自分の言葉をひとつ、ゆるめさせてください。スライドの末尾に「確認されています」と書きましたが、いまの私なら「報告があります」と書きます。オキシトシンやコルチゾールという物質が体内にあり、それぞれ一般的な作用をもつこと――ここは確立に近い知見です。けれど「やさしく触れると、この物質がこう動き、こう効く」という一本の鎖には、なお留保が残ります。方向としては支持されていますが、量と因果は文脈しだいなのです。

コルチゾールについても、一言だけ添えます。これは副腎皮質から出る、HPA軸(視床下部-下垂体-副腎系)という連鎖の最終産物です。ストレスに応じて上下する物差しであって、低ければ低いほどよい、というものではありません。

効果の大きさは、関係性、その場の状況、既往、触れられることにまつわる過去の経験、そしてその日の体調によって、大きく揺れます。「触れれば必ず、誰にでも、これだけ動く」とは申しません。ここから先の数枚も、どうかその目で読んでください。

さらに詳しくは、書籍の第19章に書いています。

オキシトシンの多彩な作用

「絆ホルモン」という愛称に留保を添える

オキシトシンの多彩な作用
スライド 14

この物質に一枚を割いてきたのは私ですから、ここでこそ、留保を添えておかなければなりません。

この一枚には、確かさの違う二つの層が同居しています。ひとつは、オキシトシンが脳の視床下部(室傍核・視索上核)でつくられ、下垂体後葉から放出されるという経路。これは確立した解剖学の事実です。もうひとつは、並べた四つのはたらき。こちらは「関与することが広く支持されている」という水準であって、「必ずそうなる」ではありません。同じ一枚の上にあっても、二つを同じ強さで読まないでいただきたいのです。

留保は、呼び名にもあります。「絆ホルモン」は親しみやすい愛称ですが、呼び名が因果を保証するわけではありません。オキシトシンのはたらきは文脈に左右され、いつも人と人を近づける方向にはたらくとはかぎらない――内集団びいきや警戒を高めるという報告もある――ことが、学術の世界では知られています。加えて、人の血液や唾液でこれを測ること自体に方法論の議論があり、唾液は血中の弱い代理にすぎない、という指摘もあります。

万能のホルモンとして、効果の根拠を前に出さないこと。それが、私の守っている線です。

さらに詳しくは、書籍の第3章に書いています。

やさしく触れることがオキシトシン分泌を促す

いちばん細い糸で、つながっているところ

やさしく触れることがオキシトシン分泌を促す
スライド 15

前の一枚が「オキシトシンに何ができるか」なら、この一枚は「どうすればそれが動くのか」です。そして、今日の話でいちばん細い糸でつながっているのが、ここです。

「C触覚線維の活性化 → オキシトシンの分泌 → 不安の軽減」という筋道は、よく語られます。けれど、この一本の鎖を、人において直接に、しかも量として示した証拠は、まだ弱いのです。CT線維と島皮質、社会的なタッチとの関わりには支持があります。オキシトシンと社会行動の関わりにも支持があります。その二つを一本につなぐところに、飛躍が残ります。「皮膚は外部に露出した脳」という言い方も、確かな事実を縮めた比喩であって、解剖学の定義ではありません。

では、手に持ち帰れるものは何もないのか。そうではありません。「強すぎる刺激ではなく、快適で心地よい刺激」――ここは確かです。CT線維は、秒速およそ1〜10cm(山の頂は秒速3cm前後、3〜5cmとも)、皮膚の温度に近い温かさ、うぶ毛がそよぐ程度の軽い圧で、最もよく応えると報告されています。人の神経を一本ずつ記録する研究に支えられた、確立寄りの知見です。しかもCT線維があるのは、うぶ毛の生えた皮膚――腕や背中――で、手のひらにはほとんどありません。撫でる先は、そちらです。

機序の決着を待たずとも、速すぎず、冷たすぎず、強すぎない――その中庸は、明日から整えられます。

さらに詳しくは、書籍の第3章に書いています。

タッチの科学的効果(身体)

手を当てると和らぐ、その脊髄の「門」

タッチの科学的効果(身体)
スライド 16

ここで、話の系統が変わります。前の三枚はホルモンや神経化学の話でしたが、三つめのゲートコントロール理論は、脊髄で起こる痛みの調整の話です。1965年にMelzack(メルザック)とWall(ウォール)が提唱しました。

痛みの情報は、細い神経を通って脊髄へ入ります。いっぽう触・圧・振動は、太く速いAβ線維(先ほどの「情報ルート」です)を通って、同じ脊髄へ入る。そこには痛みの伝達を上へ通すか抑えるかを調整する「門」のような仕組みがあるとされ、太い触圧覚の入力が増えると、門は閉じる方向へはたらく。だから、さすると和らぐ――そう説明されます。「手当て」という言葉が、文字どおり手を当てることから来ているのは、偶然ではないのかもしれません。含意は二つ。痛むところに手を当てること自体に神経の土台があること。そして、だからこそ「強く押せばよい」のではないことです。

上の二つには、私の言葉をゆるめておきます。血圧や心拍が落ち着く方向へ動くという報告はあります。免疫については、抗炎症への関与が語られる段階で、「病気にかかりにくい体を作る」と言い切るには、まだ距離があります。

理論の大枠は広く支持されていますが、脊髄と脳での痛みの調整は、当初のモデルより複雑だとわかってきました。痛みが必ず消えるわけでもありません。強い痛み、原因の特定が必要な痛みは、さすって済ませず、受診を検討してください。

さらに詳しくは、書籍の第19章に書いています。

タッチの神経化学(まとめ)

矢印の重さは、物質ごとに違います

タッチの神経化学(まとめ)
スライド 17

この表は、私が講座で配ってきたものです。わかりやすく、臨床の実感ともよく合います。けれど、ここでいったん立ち止まります。矢印の一つひとつは、同じ重さではないからです。

真ん中の列――それぞれの物質が体内にあり、一般的な作用をもつこと――は、確立に近い知見です。右の列――やさしいタッチでそれが動くこと――は、物質によって留保の重さが違います。セロトニンは測定と定量に課題があり、「増加するという報告がある」まで。エンドルフィンは「放出されるとされる」まで。「幸せホルモン」という愛称も、オキシトシンと同じで、因果の保証ではありません。

いちばん慎重に扱うべきは、一酸化窒素(NO)です。NOが血管をゆるめ、血流を調整することは、ノーベル賞に輝いた確立した生理学です。しかし「タッチ→NO→血流改善→癒し」という鎖には、あいだの段が埋まっていません。どの刺激が、どの細胞で、どれだけNOを出すのか。NOは局所で、短い時間だけはたらく分子です。安心という全身にわたる持続的な体験を、これ一つで説明してしまうのは、単純化がすぎます。

かつて自分が配った表を、否定するのではありません。確かさの程度を、正直に示すということです。

さらに詳しくは、書籍の第19章に書いています。

指圧が持つ「こころとからだをつなぐ力」

孤独の時代に、なぜ触れることを語るか

指圧が持つ「こころとからだをつなぐ力」
スライド 18

ここで、神経と化学の言葉を、いったん手の言葉へ戻します。「単なる身体調整ではない」と言い切るからには、その背景を申し上げておかなければ、ただの誇大な物言いになってしまいます。

なぜ今、わざわざ「触れること」を語るのか。背景にあるのは、スキンシップが減っているという実感です。私は資料に「日本人の約4割が孤独感がある」と書いてきましたが、これは私自身の記載値で、調査名も年も確かめられていません。ですから数値としては断定しません。孤独には、働き方、単身世帯の増加、地域のつながりの変化など、たくさんの要因が絡みます。触れ合いの減少は、そのひとつの側面として理解しておくのが誠実だと思います。

もうひとつ、文化の対比があります。西洋はハイコンタクト、日本はローコンタクトとされます。人前でハグをするのは、私たちには少し照れくさい。だからこそ、日本では「やさしく触れる」こと自体が特別な意味を持つのではないか――そう思っています(ただし平均的な傾向であって、ひとりひとりへの決めつけには使えません)。

そのうえで、誇大にはしません。触れ合いは孤独の万能薬ではありません。そしてローコンタクトの文化でこそ、触れる前の予告と同意が欠かせないのです。

さらに詳しくは、書籍の第19章に書いています。

指圧療法とは ‒ 日本発のやさしい手技療法

年号を、正しく置き直しておきます

指圧療法とは ‒ 日本発のやさしい手技療法
スライド 19

ここから、指圧そのものの話に入ります。まず、スライドの年号を置き直させてください。

かつて私は「1957年に定義された」と記してきました。けれど法令の歩みを確かめ直すと、正確にはこうです。根拠法は『あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律』(あはき法)で、制定は1947年。当初の法文に「指圧」の語はまだなく、明記されたのは1955年(昭和30年)の改正によってです。題名に「指圧」が加わったのは1964年。一度の立法で生まれたのではなく、戦後の法整備のなかで段階を踏んで位置づけられていきました。資格の正式名称も「指圧師」ではなく「あん摩マッサージ指圧師」で、一つの免許に三つの手技が含まれます。なお「日本独自」とは、他国の手技より優れているという意味ではなく、この風土から生まれ育ったという事実の記述です。

「持続圧」の核は、揉むことでも動かすことでもなく、置いて、待ち、聴くことにあります。ふわりと触れ、沈み込むように圧を保ち、ゆっくりと抜く。

なお「持続圧→自律神経→自然治癒力」という道すじは、作用仮説として広く語られますが、機序が確立しているとは言えません。ですから「治す」ではなく「整う・引き出す」と申します。指圧は、医療の診断・治療の代替ではありません。

さらに詳しくは、書籍の第0章に書いています。

浪越徳治郎 - 指圧療法を体系化し世に広めた

母ごころは感傷ではなく、抑制です

浪越徳治郎 - 指圧療法を体系化し世に広めた
スライド 20

まず、帰属を丁寧にしておきます。「母ごころ」も、この句も、浪越徳治郎の言葉です(仮名づかいの異なる形も伝わっており、表記には揺れがあります)。いっぽう浪越について確かに言えるのは、指圧療法を体系化し、世界に広めた、というところまでです。指圧は按摩・マッサージという素地の上に育った手技ですから、「手技そのものを一人で発明した」とまでは申しません。先人の積み上げた土台の上に、指圧は立っています。

そして、もうひとつ分けておきたいことがあります。この句を臨床倫理の核として読み直しているのは、浪越の原語ではなく、私の解釈です。母ごころは「母の手は温かい」式の感傷ではありません。中身は三つの抑制です。相手を自分の理屈に従わせない節度。相手の苦痛を、自分の能力の証明に使わない慎み。「自分が治す」という傲慢を抑え、相手の身体がもつ調整力に敬意を払う態度。

温かさだけでは支配へ滑り、手放しだけでは冷たい放置になります。母ごころは、そのあいだにある精密な張力です。次の一枚で語る「安全の合図」は、この張力を手の作法へ訳したものにほかなりません。

さらに詳しくは、書籍の第18章に書いています。

安心を生み出すポリヴェーガル理論と施術者の在り方

レンズとしては有用、確定した真実としてではなく

安心を生み出すポリヴェーガル理論と施術者の在り方
スライド 21

ここまで、触れられた身体に何が起きるかを、神経と物質の側から見てきました。ここで問いの向きが変わります。なぜ、その触れかたが安心になるのか。

まず、確かなところから。迷走神経が二つの起始核――疑核から出る有髄線維と、迷走神経背側運動核から出る無髄線維――を持つことは、確立した神経解剖学の事実です。けれども、その二系統を系統発生の新旧に分け、社会性や情動へ一対一に機能を割り当てる枠組みは、まだ仮説の段階を含みます。有髄の心臓迷走線維や呼吸性心拍変動は魚類・爬虫類・鳥類にも見られる、という比較解剖学からの批判があり、論争は決着していません。神経覚という語も、この理論の中の造語です。

それでもこの枠組みを手放さないのは、現象の記述と臨床での有用性が、理論の真偽とは別に成り立つからです。穏やかな声、ゆったりした動き、予告のある丁寧なタッチが落ち着きを生む――この観察は、理論に頼らずとも語れます。副交感神経が優位になりやすい状態を促し、気持ちよさを伝えるC触覚線維をよく刺激し、見分けるための系を脅かさない、と。

言い方も、そこで止めます。安全な状態は治癒の十分条件ではなく、条件を整えるものです。安心とは、脅威が消えた状態ではなく、安全の手がかりが届いている状態です。ただし触覚過敏やつらい記憶のある方では、その手がかりが危険と受け取られることもあります。同意と、反応の観察が、いつでも先に立ちます。

さらに詳しくは、書籍の第3章に書いています。

施術者のマインドフルネスが治療効果に影響する

1.4倍という数字の、正しい置きどころ

施術者のマインドフルネスが治療効果に影響する
スライド 22

スライドに「約1.4倍」とあります。この数字には、直した跡があります。もともとは「約2倍」と書いていたものを、原論文を開き直して訂正しました。その作業ごと、ここに書いておきます。

研究は、過敏性腸症候群の患者262名を三つの群に割りつけた臨床試験でした。観察だけの待機群。偽の鍼のみで、施術者は会話をしないよう指示された限定群。そこに温かさ、傾聴、共感、肯定的な期待を加え、初回に45分ほどをかけた強化群。主要な指標である「十分な症状緩和を報告した人の割合」は、待機28%、限定44%、強化62%でした。

私が比べたかった強化群と限定群は、62%対44%。およそ1.4倍であって、2倍ではありません。約2倍が立つのは、何もしない待機群との比較か、副次的な指標のときです。数字は、都合のよい対照を選べば大きくなります。だから、どの群とどの群を比べたのかを書き添えないかぎり、倍率という言い方はそれ自体が誤解のもとになります。なお割りつけと主要指標は、この試験の最初の報告(Kaptchukら, BMJ 2008)にあります。

訂正したあとに残るものもあります。この研究が結論に置いたのは、患者と施術者の関係こそ最も頑健な構成要素である、という一文でした。関係の質は治療のおまけではなく、効く中身の一つだということです。1.4倍は2倍より地味ですが、偽の鍼という同じ物理刺激のもとで、施術者の在り方だけがこれだけの差を生んだ、と読めば、じゅうぶんに重い数字です。

読み違えてはいけない点も、同じだけ大切です。測られたのは主観的な症状の報告であって、器質的な疾患の治りではありません。母ごころは臨床から生まれた言葉であり、この試験が証明したものではありません。在り方の価値を、一本の論文には賭けません。

さらに詳しくは、書籍の第4章に書いています。

「集中の原則」と「圧の呼吸」

呼吸は作るものではなく、気づくもの

「集中の原則」と「圧の呼吸」
スライド 23

在り方は手の振る舞いとして外に出る。前の一枚が確かめたのは、そのことでした。では、どう訓練するのか。誤解されやすいところです。

圧の呼吸は、腹式呼吸でも丹田呼吸でも、深呼吸でも数息観でもありません。「吸う息で押し、吐く息で抜く」という対応づけも、秒数の指定も、指示したことはありません。呼吸を作り込めば、それが力みを生み、第2部で扱う関節の遊びや床反力を損ないます。こしらえた呼吸は不自然な間となり、相手の防御を招きます。

実技として言えるのは二つです。一押しごとに呼吸へ戻すと雑念が静まり、指先の感覚が研ぎ澄まされること。息を止めて押すと体幹が固まり、圧が鋭い衝撃に変わること。目安は、止めないこと。それ以上は処方にしません。呼吸へ戻ると動作はおのずと遅くなり、圧点を移る手の速さも、気持ちよさを伝える線維のよく応じる範囲へ収まりやすくなります。

注意は必ずそれます。無心になることが目的ではなく、それたと気づいて、責めずに戻す。その反復が訓練の本体です。点検の指標も「そらさなかった回数」ではなく「戻せた回数」に置きます。集中が保てている状態は、熟練者でも常時は続きません。

「我を忘れて押す指に ひびくは奇しき力ぞや」。指圧讃歌(作詩 三石勝五郎/作曲 浜田侃)の最終連です。我を忘れるとは超常の境地ではなく、自己顕示や支配、急ぐ思考が静まり、注意が相手と指先へ向いた状態の、詩の言葉だと思います。

さらに詳しくは、書籍の第4章に書いています。

第2部 連結圧の生体力学

力の出どころを、腕から床へ移す

第2部

安心の話から、身体の使い方の話へ

第2部
スライド 24

ここで第1部が閉じます。区切りの意味を、ひとこと添えておきます。

第1部で扱ってきたのは、触れられる側の身体に何が起きるかと、触れる側がどう在るかでした。粗雑な触れかたは防御を招き、繊細な触れかたは安心を生んで、身体が圧を受け入れる準備を整える。焦りは圧の急ぎとなり、支配欲は接触の硬さとなって、目に見える形で相手に届きます。在り方の話は、必ず身体の使い方の話へ降りてきます。逆に言えば、身体を支える技術がなければ、母ごころは手のかたちになりません。

ここから先は手技の部です。けれども、母指の角度や手首の使い方といった手先の話ではありません。足の裏から指先までをどう使うか、つまり術者自身の整いを、力学の言葉で捉え直す部だと思ってください。

言葉づかいについて、先に断っておきます。これから出てくる連結圧、弾性ロッド、伸展リレーといった語は、私が自分の体系の中で育ててきた言い方であって、生体力学の標準用語ではありません。いっぽう、それらが寄りかかっている床反力、作用と反作用、運動連鎖、組織の粘弾性のほうは、確立した一般原理です。確立した力学を、自分の臨床モデルへ当てはめている――そういう構図で書かれています。当てはめ自体は妥当だと考えていますが、効果の大きさを測った研究を示せるわけではありません。

深く浸透する圧は、それだけ相手に届いてしまう力でもあります。正確さと安全は、同じ一つの話です。

さらに詳しくは、書籍の第5章に書いています。

押圧法の核心:「連結圧」の生体力学

「重い」と「深い」は、別物です

押圧法の核心:「連結圧」の生体力学
スライド 25

第1部の到達点は、粗雑な触れ方が防御を招き、繊細な触れ方は身体が圧を受け入れる準備を整える、ということでした。ではその安心の上に、どんな圧を、どう届けるのか。ここからが第2部です。

まず、覆しておきたい常識があります。深く効かせるとは、強く、きつく、疲れることだ——そう思われがちです。けれども「重い」ことと「深い」ことは、別物です。体重を預けた圧は重いけれど、押し込まれた身体が身構え、その壁で止まるので浅い。連結圧は軽いのに深い。防御の壁を立てさせないので、組織がゆっくり受け入れて沈み込んでいくからです。

ここで一線を引きます。体重を上手く使うことと、のし掛かることは、まったく違います。稽古では、こう問いかけます——いま受け手が瞬間移動して消えたら、私はこの姿勢のままでいられるだろうか。前へ倒れるなら、相手に寄り掛かっていた証拠です。

三つの原理は、この順に並べてあります。まず圧を通す器を整え、次に力を運び、最後に返ってきた力を受ける。順に一枚ずつ見ていきます。

なお、床反力も、作用と反作用も、運動連鎖も、力学として確立した原理です。一方、連結圧・弾性ロッド・伸展リレーといった言葉は、私が臨床のなかで育ててきた体系語であり、比喩です。太極拳も根拠ではありません。同じ身体の使い方を別の伝統が独立に磨いてきたことを照らす、窓として挙げています。

さらに詳しくは、書籍の第5章に書いています。

原理1:全ての関節は「伸ばしきらず・曲げすぎず、遊びを保つ」

緩めるのではなく、張ったまま余白を残す

原理1:全ての関節は「伸ばしきらず・曲げすぎず、遊びを保つ」
スライド 26

三原理の一つめは、圧を通す「器」をつくる話です。関節を伸ばし切ってはいけない——臨床の長い方ほど、耳にたこができるほど聞いてこられたはずです。それが指先の感覚と術者の身体寿命を左右する具体的な話だと腑に落ちるには、体験よりほかにありません。

ロックとは何かを、正確にしておきます。膝は完全伸展で脛骨がわずかに外旋して締まり、肘は肘頭が肘頭窩に嵌まり込む。つまりロックとは、力を入れて固めることではなく、骨と靭帯に荷重をあずけた受動的な固定です。取り違えると、機序がまるきり逆になります。むしろ遊びを残す側にこそ、屈筋と伸筋を薄く同時に効かせる共収縮——内面の張力——が要ります。

紛らわしい状態が四つ。ロック、へにゃへにゃの緩み、遊びと張力の両立、全部を固めること。正解は三つめだけ。曲げていても固めてしまえば、逃げ場が消えてロックと同じです。角度は数度から十数度。最適の数値を私は書いたことがありません。関節弛緩性や既往で大きく変わるからです。

遊びが感覚を鋭敏にするという説明も、終末域での飽和を避け、中間域と共収縮が筋紡錘の感度を保つ、というところまでは生理学と整合します。ただし指圧の場で触知精度が上がる因果を測った研究は、私の探しえたかぎり見あたりません。

なお、この一枚で弾性ロッドが完成するのではありません。各関節を弾性要素にしておく仕込みで、力を通し、反作用を貫通させて、はじめて働きます。

さらに詳しくは、書籍の第6章に書いています。

原理2:抗重力筋の「伸展リレー」

圧が届かない原因は、母指にはありません

原理2:抗重力筋の「伸展リレー」
スライド 27

圧が母指まで届かないとき、多くの方は末端を強めます。母指を握り込み、手首を立てる。けれども点検すべき場所は、いつも手前にあります。前の一枚の遊びも、ここでは伸びしろとして効きます。ロックした関節には、伸ばす余地がないからです。

四つの区分には、それぞれ決まった動詞があります。足部は吸収、下肢と骨盤はパワー、体幹は安定と伝達、肩甲帯と上肢は固定と送り届け。混ぜられません。下腿三頭筋をパワー源と読んで床を蹴れば、押圧ではなく前方への推進です。大腿四頭筋は膝を安定させる役で、パワーの源は股関節の伸展、すなわち大殿筋とハムストリングスです。膝の伸展主導で力むと、重心が膝へ落ちて、のし掛かりを招きます。脊柱は力を生む場所ではなく、漏らさない場所です。

最大の関所は、肩甲帯にあります。肩甲胸郭関節は骨どうしの固定をもたず、筋によってしか胸郭に押しつけられません。土台をつくれないと、足から上ってきた力は肩で逃げ、結局は腕力に戻ります。ひとつ厳密に。広背筋の主たる停止は上腕骨であって、肩甲骨ではありません。下制・下方回旋の主役は僧帽筋下部で、前鋸筋と菱形筋が助けます。広背筋の役目は、上肢の全体を体幹へつなぎ留めることです。

なお、指先の圧の何割が床反力に由来するのか、数値を私は持っていません。ここで申し上げているのは、力の主役を局所から全身へ移すという配分の組み替えです。

さらに詳しくは、書籍の第7章に書いています。

原理3:押圧における作用と反作用

返ってきた力を、どこで受けるのか

原理3:押圧における作用と反作用
スライド 28

この一枚で断定してよいことは、ひとつだけです。押せば、必ず同じ大きさで逆向きの力が返る。これはニュートンの第三法則であって、仮説でも比喩でもありません。議論の余地があるのは、返ってきた力を術者がどこで受けるか、それだけです。

よくある誤解を先に解いておきます。作用と反作用が打ち消し合うから楽になる、のではありません。二つは母指と受け手の組織という別々の物体に働きますから、足し合わせて消えることが起こらないのです。変えられるのは受ける構造のほうだけ。母指や肩という小さな関節から、床へ移し替えます。母指は圧の出口であって、発生源ではなくなります。

行き止まりになる場所を、解剖学の名前で挙げておきます。母指の第一手根中手関節、母指のMP・IP関節の側副靭帯、手関節掌側の手根管領域、肩前方と腱板。徒手を生業とする者にとって、ここの故障は廃業に直結します。この原理は、受け手のためであると同時に、術者自身を守るためのものです。

留保をふたつ。床反力はエネルギー源ではありません。術者が床を押す筋の活動があってはじめて、対として生じる受動的な反力です。そして「一本のベクトル」を、幾何学的に完全な直線と読まないでください。全関節をロックした剛体にしてしまえば、かえって逆効果です。各関節の微小な伸展の合成として、作用線を一直線へ近づけていく意識、というところです。

さらに詳しくは、書籍の第8章に書いています。

連結圧の臨床的意義

効能の一覧ではなく、一つの原理の帰結

連結圧の臨床的意義
スライド 29

並べた六つは、効能のカタログではありません。「反作用を全身で受ける」という一つの原理から出てくる帰結として、読んでいただきたいのです。

たとえば支え圧は、なんとなくの一体感ではなく、幾何学的に定義できます。母指圧のベクトルと四指の支え圧のベクトルが、受け手の体内の一点で収束したときに成立する。成立は二段で、加圧の前に前腕をわずかに回内(部位により回外)して手首の遊びを取り、四指を吸い付かせる。次に反作用が、圧を母指だけに集約します。「引き寄せる」は、つまみ上げる牽引ではありません。握り込めば前腕の屈筋群が張り、負担が手首と肘へ戻ります。

言葉を正確にしておきたい箇所が三つあります。「重さが軽くなる」のは受け手の主観であって、術者が無負荷になるわけではありません。荷重は依然としてかかっています。「深く浸透する」も、物理的な到達深度が増すことを実証した数字があるわけではなく、防御を招かないので受け入れられやすい、という機序として理解してください。そして筋性防御を起こしにくい理由のうち、力学として言えるのは、剪断が少なく、荷重の立ち上がりが緩やかで、予測がつくというところまで。その先の神経の機序は、まだ仮説です。

局所の負担が力学的に分散されることは断定できます。けれども、それによって術者の障害が実際に減るという臨床の結果は、まだ確かめられていません。

さらに詳しくは、書籍の第8章に書いています。

実践技法:触れてから圧が浸透するまで

五手順は直線ではなく、環になっています

実践技法:触れてから圧が浸透するまで
スライド 30

五つは、順に並んだ独立の技ではありません。前の手順の到達が次の前提になり、⑤の終わりは次の点の②へ還っていく——直線ではなく、環です。環の最初と最後は、どちらも「触れ方」。押圧は、その真ん中にあるにすぎません。

①では、まだ押しません。四指は容易に剥がせる状態です。手指に力が入るとPIP関節が曲がり隙間ができますから、中指を一、二センチ遠くへ伸ばす意識で、MP関節までを曲面に沿わせます。②の成立は、小指を剥がしてみれば分かります。

③の「溜め」は、気を溜めることではありません。体軸はもう前へ動き出しているのに、母指にはまだ圧の立ち上がりがない——無圧の先行区間です。溜めを飛ばせば押し込む圧に、経れば沈み込む圧になります。

④には禁忌があります。肘を伸ばしたまま体幹を引いて減圧してはいけません。人型の風船から空気が抜けるように、腰・背中・肘をその場で弛める。受け手にわずかに近づき、次の点の伸びしろが生まれます。母指は最後まで離しません。申し上げられるのは「ごく弱い圧で緩められる」というところまで。大脳を介するという説明は、私の解釈であって裏づけを持ちません。

⑤は、C触覚線維を意図して灯せる数少ない局面です。押圧中は圧が強く速度がゼロで、この線維には最適な刺激になりません。ただし、うぶ毛のある部位に多い線維です。手掌のような無毛部にはほとんど分布しませんから、そこでこの効能は言えません。

さらに詳しくは、書籍の第9章に書いています。

第3部 三次元的アプローチ

点を押す指圧から、立体を捉える指圧へ

第3部

術者の身体から、受け手の身体へ

第3部
スライド 31

第2部までは、術者が自分の身体を整える話でした。床反力を伸展リレーで一本の線として運び、返ってくる反作用を全身の軸で受け止め、のし掛からない重心でそれを支える。第3部は、その視点を受け手の身体へ折り返します。術者が連結体であるように、受け手もまた連結体であり、両者は反作用によって循環している。この三重の連結が出そろって、はじめて「三次元」という言葉が立ち上がります。

ですから三次元的アプローチは、新しい流派でも、上級者だけの特権技でもありません。連結という一つの原理が、術者から受け手へ、さらに両者の関係へと広がったものです。

この部で扱うのは三つです。一点を、方向と深さとつながりという三つの軸のなかへ置き直すこと。二点以上へ同時に手を置くこと。そして、その配置を手技とリズムとして組み合わせること。

ただし順序だけは崩せません。応用は基礎の置き換えではなく、基礎の上にしか立ちません。片手が崩れたまま、もう一方を足せば、「二倍効く」のではなく「二倍崩れる」。この部は、そこを何度も確かめながら進みます。

さらに詳しくは、書籍の第11章に書いています。

三次元的アプローチ:多点同時刺激の展開

立体なのは身体、平面なのは見え方

三次元的アプローチ:多点同時刺激の展開
スライド 32

まず、いちばん大切な反転命題から申し上げます。身体は、もともと三次元です。筋は厚みと体積をもち、皮膚の下には層があり、隣り合う筋とのあいだには連続がある。圧点に母指を置いたその瞬間に、私たちはもう立体へ触れています。平面的なのは、対象ではなく術者の認知の側です。一点を、皮膚の上に打たれた孤立した座標としてしか見ていない——その注意の張り方を、ここでは二次元的と呼んでいます。次元という語は幾何学の話ではなく、注意の解像度をあらわすための比喩です。

ですから「進化」は「否定」ではありません。第2部の一点貫通は、それ自体すでに完成度の高い技術です。点が消えるのではなく、点が線と面と立体のなかへ置き直される。押している場所は一つも変わらず、変わるのは術者のなかでの、その一点の在り方だけです。

多点同時についても、先に否定しておきます。これは強い圧の技ではありません。力源である床反力は一系統で有限ですから、二点へ分ければ各点はむしろ浅くなりえます。ねらいは最大の圧ではなく、二点のあいだに関係——文脈——をつくることです。ただし単点に対する優位を示す質の高い臨床試験は、調べたかぎり見あたりません。相乗効果は、いまのところ臨床の観察であり、作業仮説です。

さらに詳しくは、書籍の第11章に書いています。

多点同時アプローチのバリエーション (1)

筋の両端を、同時に聴くということ

多点同時アプローチのバリエーション (1)
スライド 33

同一筋への同時刺激とは、起始—筋腹—筋腱移行部—停止という連続体を、複数の点で同時に把持することです。一端だけを押すと押された側は逃げ、反対の端に張力が溜まりやすい。両端をとらえると、筋の全長へ「ここはひとつの筋だ」という情報が同時に入る、と考えています。腱と筋腱移行部にゴルジ腱器官などの固有受容器が密にあることは確立した知見ですが、二点同時が一点ずつより優れると示した比較試験は見あたりません。「ふわっと緩むことがよくある」という経験の言い方のまま残しています。

解剖は精密であるほど安全になります。肩甲挙筋の起始を「横突起を押す」とは言いません。深部に椎骨動脈・頸神経叢・横隔神経が走りますから、その高さの筋腹を後外側から面で触れるにとどめます。停止も上角だけでなく内側縁の上部に及び、ハムストリングスの停止も、大腿二頭筋は腓骨頭、半腱様筋は鵞足、半膜様筋は脛骨内側顆後面と、三つに分かれます。膝窩の中央への強圧は行わず、腓骨頭の直上は位置の確認までです。

拮抗筋について二つ。菱形筋と前鋸筋は、肩甲骨を胸郭へ固定する点では協調する機能的対であって、純粋な拮抗ではありません。相反抑制という仕組み自体は確立していても、他動的に両側を同時に押す施術へ当てはめる裏づけはなく、言えるのは関節の機能的なバランスまでです。挟む強さではなく、配置です。側胸部は肋骨の弾性に逆らわず、説明と同意を先に面で触れます。

さらに詳しくは、書籍の第12章に書いています。

多点同時アプローチのバリエーション (2)

どこまでが解剖で、どこからがモデルか

多点同時アプローチのバリエーション (2)
スライド 34

この一枚は、確実性のグラデーションの順に並んでいます。腸脛靭帯の例は、仮説に頼らずとも説明がつきます。腸脛靭帯は収縮要素をもたない受動的な帯で、大殿筋の浅層線維と大腿筋膜張筋がそこへ停止し、脛骨外側のGerdy結節へ至ります。張力の源が近位の筋にあるのですから、腸脛靭帯だけを押しても緩みにくいのは必然です。ここは確立した機能解剖です。

いっぽうアナトミー・トレインは、概念でありモデルです。系統的レビューでは、ラインごとに証拠の強さが違うと報告されています。後表ラインは比較的しっかりしており、浅前線は検証された移行部がゼロ、上肢のラインは実証がもっとも乏しい。経筋理論は伝統中医学の古典で、実証の水準が異なります。この二つを同一視も相互証明もしません。もっとも、私の原文も「アナトミートレインや経筋理論のように意識して」と書いていました。ライン上で試すのであって、ラインが実在するから効くとは申しません。

意識そらしについては、ひとつ厳しく申し添えます。骨盤底はあくまで「関連エリア」であり、会陰・肛門・外陰部への接触は含みません。鎖骨下窩の深部には腕神経叢と鎖骨下動静脈が通りますから、烏口突起の直下を点で押し続けません。そして、意識そらしが向かう先は受け手の防御反応であって、意識でも同意でもありません。応用が高度になるほど、説明と同意と声かけは、むしろ厚くします。

さらに詳しくは、書籍の第12章に書いています。

圧法の創造的な組み合わせ

組み合わせは足し算ではなく、役割の分担

圧法の創造的な組み合わせ
スライド 35

組み合わせという言葉から、足し算を思い浮かべないでください。床反力は一系統で有限です。両手が同時に体重を載せれば、重心は二点の中間で宙づりになり、「踵を持ち上げられない」という安定の指標が破綻します。ですから両手の役割は、非対称に分けます。荷重を担うアンカーの手をひとつ決め、もう一方は床反力に頼らず、探り、リズムを与える手にする。母指圧は精密な標的へ、掌圧や四指圧は広い面で安心を支える側へ。警戒部位の側は、必ず荷重を担わないほうへ置きます。

リズムの機序は、留保したままにしておきます。ゆっくりしたやさしい刺激と心地よさの関係はC触覚線維の知見に通じますが、その最適な速度は毎秒およそ1〜10センチ、資料によっては3〜5センチと幅があり、律動する圧の最適な周期を定めるだけの裏づけを、私は持ち合わせていません。ですから数値を当てはめず、術者自身の自然な呼吸を起点に、相手の反応から探ります。減圧を受け止める双手の刺激も同じで、叩くのではなく、返ってくる反発に乗るだけ。骨の突起や肋骨、神経血管の浅い場所では行いません。

唯一無二とは、奇抜な手技や秘伝のことではありません。基礎が手の奥へ沈黙し、その上で、目の前のこの身体へ即応する。その積です。——「我を忘れて押す指に ひびくは奇しき力ぞや」。指圧讃歌(三石勝五郎 作詩/浜田侃 作曲)の一句を、灯りのように掲げておきます。

さらに詳しくは、書籍の第13章に書いています。

家庭指圧の極意

頂から降りて、家族の肩へ還る

家庭指圧の極意
スライド 36

応用の頂から、話は家庭へ降ります。いえ、還る、と言ったほうが正確かもしれません。多点同時も意識そらしも、めざしていたのは最大の圧ではなく、防御をやわらげ、相手の身体がみずから沈むのを待つことでした。その結論だけを取り出せば、そのまま家庭の手へ渡せます。

ふわり、とは面で着地することです。指先で点を突かず、体表のカーブに沿わせ、最後まで減速しながら下ろす。触れたらすぐには押さず、数秒、ただ置きます。しんみり、とは呼吸に合わせることです。相手が吐くのに合わせてすーっと沈め、吸うのに合わせてゆるめる。強い圧は身構えを呼び、組織の損傷や骨折を招きえます。家庭で触れる相手は、子どもや年老いた親であることが多い。「痛い」「やめて」を言い出しにくい人たちですから、触れる側が先に線を引きます。

そして、いちばん深いところにあるのが、やさしい気持ちです。「指圧の心 母ごころ、押せば生命の泉湧く」は、浪越徳治郎の言葉として知られます。私はこれを、強い立場にある側が自分の強さを一段下げるための規律として読み直してきました。読み直したのは私であって、浪越の原語がそう語っているのではありません。

家庭版の合言葉は一つです。相手が急に消えても、前のめりに倒れ込まない姿勢か。そして、迷ったら触れない。指圧は、医療の診断・治療の代替ではありません。

さらに詳しくは、書籍の第20章に書いています。

資料 指圧圧点

体位ごとの圧点

指圧圧点 - 横向き・座位

圧点図は出発点ではなく、到着点

指圧圧点 - 横向き・座位
スライド 37

ここから六枚、圧点の図が続きます。地図が配られるのが最初ではなく、最後であること。その順序そのものが、ここでの主張です。教科書の多くは点の一覧から始まりますが、触れ方、連結圧の力学、三次元のアプローチ、家庭の心得をすべて通り過ぎたあとに、はじめて図を出しました。点の位置を知っていることと、その点へ正しく到達できることは、別のことだからです。図は道順ではなく、地形図です。

体位から入ることにも、意味があります。横向きと座位では、術者の体軸と圧点が一致しません。反作用の扱いが身についていれば、軸のずれた環境でも垂直な圧は出せますが、それは熟達したあとの話で、学びはじめはまず軸と圧点を一致させて稽古する。その順序は、崩しません。

頸には、はっきりした禁忌があります。前面と側面、拍動の触れるところは圧迫しない。横突起を点で強く圧さない。その深部を椎骨動脈や神経が通っているからです。指の下に拍動を感じたら、その時点で位置を直します。ここで扱うのは、頸の横突起のあたりから肩甲骨の上角と内側縁の上部まで届く筋ですから、なおのこと、深さより位置の正確さが問われます。

さらに詳しくは、書籍の第8章に書いています。

指圧圧点 - うつ伏せ

うつ伏せは、力学の基本形

指圧圧点 - うつ伏せ
スライド 38

うつ伏せは、連結圧がもっとも素直に成り立つ体位です。床を踏んだ力が脚から体幹を通り、亀が甲羅から頸を出すように脊柱の傾斜へ沿って伸び上がる動きに乗って、母指の一点へ収束していく。体軸と圧点が一直線に並ぶと、腕で押した感覚がないのに深く沈む圧が入ります。押している感じが手に残るなら、まだ軸が外れています。

背中の圧点が縦に連なっているのは、一点ずつが独立した的だからではありません。押し、抜き、次へ移る。その移るところまでが、一続きの動作です。減圧のときに背中と肘をその場で弛めて、受け手にすこし近づいておかないと、次の点で伸びしろが消えてしまう。点の数をこなす作業になった瞬間に、圧は粗くなります。

殿部から下肢へ下りるときは、避けるところを先に決めます。坐骨結節のやや外側から大腿後面の正中にかけて、坐骨神経が下ります。膝の裏は中央を避け、腓骨頭の真上は位置を確かめるだけにとどめます。総腓骨神経が腓骨の頸を表層で巻いていて、圧迫に弱いところだからです。ふくらはぎの片側だけが腫れて熱を持つときは、触れずに医療へ向かってください。

さらに詳しくは、書籍の第9章に書いています。

指圧圧点 - 仰向け 下肢

前と後ろを、いっしょに整える

指圧圧点 - 仰向け 下肢
スライド 39

仰向けの下肢では、前後の対が見えてきます。大腿の前面には大腿四頭筋(大腿神経 L2-L4)、後面にはハムストリングス(坐骨神経)。片方だけを緩めると関節の釣り合いが崩れて戻りやすいので、両方を同時に整える、という発想です。

ここで、機序を言いすぎないようにします。相反抑制そのものは確立した神経の仕組みですが、それは主動筋がみずから縮んだときの話であって、両側を他動的に同時に押している場面へ、そのまま当てはめることはできません。共収縮のあいだは相反抑制がむしろ低下する、という報告もあります。申せるのは「関節の機能的なバランスが回復しやすくなる」というところまでです。

膝はロックさせず、軽く曲げた中間位で扱い、裏側は中央を避けます。外側では、腸脛靭帯だけを押してもなかなか緩みません。これは仮説ではなく、確立した解剖から言えることです。腸脛靭帯そのものには縮む要素がなく、張りの源は大殿筋と大腿筋膜張筋の側にあるからです。いっぽう、身体の前面を縦につなぐ筋膜のラインのほうは、検証された移行部がありません。前面のつながりは、作業仮説として控えめに使います。内側は相手が身構えやすい場所ですから、言葉で断ってから触れます。

さらに詳しくは、書籍の第12章に書いています。

指圧圧点 - 仰向け 上肢

警戒されないことと、安全なことは違う

指圧圧点 - 仰向け 上肢
スライド 40

上肢は、触れることを受け入れてもらいやすい場所です。ですから最初に触れる場所として選ばれることも多いのですが、警戒されにくいことと、安全であることは同じではありません。腋窩の中央の深部には、腋窩動静脈と腕神経叢とリンパ節が集まっています。ここを直接強く圧さない。上腕の後面の中央を走る橈骨神経溝も、点で強く圧さない。位置を知っていれば、避けられるものばかりです。

上腕三頭筋では、下から支えるように把持して、二点の圧の向きをわずかに互いへ向け、筋の長軸をやや縮める方向へ滑らせます。ふわっと緩むことがあります。逆に、引き離す向きも作れます。向きを選べること自体が多点の力学であって、けれども毎回緩むわけではありません。緩まなかったことも、そのまま記録に残します。腕を縦につなぐ長いラインを思い描くこともありますが、筋膜連結のなかで、上肢はもっとも実証の乏しい領域です。

手掌については、ひとつ正直に申し添えます。心地よさを伝えるC触覚線維は、うぶ毛のある皮膚に多く分布します。手のひらは無毛部ですから、ここでの気持ちよさを、その神経の働きとして説明することは、いたしません。

さらに詳しくは、書籍の第12章に書いています。

指圧圧点 - 頭部・顔面部

顔は、いちばん近い距離です

指圧圧点 - 頭部・顔面部
スライド 41

頭部と顔面には、体重を預けることができません。ではここだけ別の力学かというと、そうではありません。むしろ逆で、連結圧がもともと体重の落下で押すものではない、ということが、この部位でいちばんはっきりします。

術者の背中が少しゆるんだ状態から始めます。そこから骨盤と脊柱起立筋が立ち上がり、その立ち上がりに上腕三頭筋の肘伸展を重ねて、圧にする。正座から上体をおじぎのように倒して体重で推すのではなく、「ハラ」で押す、という感じです。全身がつながっているという原理は、頭でも背中でも変わりません。使える区間が短くなるだけです。

そのぶん、支え圧と手の形と、待つ時間の比重が上がります。強さの代わりに、丁寧さが要求される場所だと言ってもよいでしょう。

同時に、ここは距離がもっとも近づく場所でもあります。目を閉じた顔へ、上から手が下りてくる。触れられる側にとって、これほど無防備な姿勢はありません。触れる側は、触れられる側より常に強い立場にある。その非対称が顔でいちばん大きくなる、と私は考えています。ですから、触れる前に言葉で断る手順を省きません。

頭の後面には帽状腱膜があり、足の裏から身体の後面を縦にたどる筋膜のラインの、上端にあたるとされます。このラインは、足底腱膜からアキレス腱へ、ハムストリングスへ、脊柱起立筋へという下半分の移行部が解剖で検証されている、比較的たしかな部類です。ただし頭までの上端まで同じように確かめられているわけではありません。実在の確定した構造としてではなく、見立てを助ける作業仮説として扱います。なお、突然の激しい頭痛は、指圧で様子を見るものではありません。

さらに詳しくは、書籍の第21章に書いています。

指圧圧点 - 胸部・腹部

最後に、いちばん無防備なところへ

指圧圧点 - 胸部・腹部
スライド 42

胸と腹が最後に置かれているのは、順序として自然なことです。ここは身体でもっとも無防備な面であり、警戒がもっとも強く出る場所でもあります。

解剖の危険も集まっています。鎖骨の下、烏口突起の内側の深部には、鎖骨下の動静脈と腕神経叢が通っています。ここを点で持続的に圧迫しない。小胸筋(第三から第五肋骨の前面に起こり、烏口突起へ着きます)へ向かうときは、大胸筋越しに、面でやさしく触れます。しびれ、放散する痛み、拍動、気分の悪さが出たら、その場で圧を抜いて手を離します。女性では乳腺組織が近くにありますから、位置と、説明と同意に、格別の配慮が要ります。

腹部では、拍動の触れるところを圧迫しません。肋骨の弾性に逆らう強い圧もしません。どこまでなら安全かという数値を、私は持っていません。ですから閾値は示さず、弾性の範囲を超えないこと、呼気に合わせて沈めること、という定性的な指針にとどめます。ここまで来て圧を急ぐようであれば、それまでに述べてきたことは、まだ手に入っていないということになります。

さらに詳しくは、書籍の第13章に書いています。

結び

受け継いだ手

指圧療法創設者・浪越徳治郎

創設者と恩師を、混ぜないこと

指圧療法創設者・浪越徳治郎
スライド 43

浪越徳治郎は、指圧療法を体系化し、世界に広めた創設者です。遺した言葉は「指圧の心 母ごころ、押せば生命の泉湧く」。母ごころとは、病む子をさする母の手のような、相手への無条件の敬意を指す言葉です。それを感傷ではなく辛口の臨床倫理として——相手を自分の理屈に従わせない節度、相手の苦痛を自分の能力の証明に使わない慎み、自分が治すという傲慢を抑える態度として——読み直しているのは、浪越の原語ではなく、私の読みです。この二つの層は、どうか分けて受け取ってください。

浪越が説いたのは、母心であり、手当ての最高形態であり、自然治癒力でした。手当ては、医学より古い。けれども浪越の偉さは、その原始性をそのまま放置せず、解剖学と生理学で鍛え直したところにあります。ここまで解剖の話を続けてきたのは、そのためです。

もう一人は、恩師の鈴木林三先生です。受け継いだのは、臨床と人間愛の真髄という、その範囲までです。母ごころを鈴木先生に帰することは、いたしません。浪越から鈴木へ、鈴木から私へ、という一直線の系譜としても描きません。仰ぐ創設者と、じかに教わった師は、別の層に置いておきたいのです。先ほどまでの圧点の図は、その鈴木先生が残された書物から採りました。

さらに詳しくは、書籍の第18章に書いています。

本日の内容が、皆様の新たな視点と可能性

押すことより、聴くこと

本日の内容が、皆様の新たな視点と可能性
スライド 44

結びに、どんな手を育てたいか、という問いをお渡しします。私の答えは、四つの段です。構造を学ぶこと。学びのない優しさは、人を守れないからです。触覚を磨くこと。ただしそれは、敏感になることではなく、先入観を薄くすることです。倫理を鍛えること。押せることと押してよいことは違い、効くことと正しいことも、また違います。そして最後に、学んだすべてを沈黙させること。忘れるのではなく、手の奥へ沈めて、必要なときにだけ正確に働かせる。初学者の沈黙は怠慢であり、学び尽くした者の沈黙だけが、これにあたります。

そこへ到るとき、三つの句が手に宿ります。押すことより、聴くこと。効かせることより、整うこと。操作することより、相手の身体の中にある回復の力を信じること。「より」は比較級であって、左側の全否定ではありません。聴くことを土台にして、押すのです。

指圧讃歌(作詩 三石勝五郎/作曲 浜田侃)の最終連に、「我を忘れて押す指に ひびくは奇しき力ぞや」とあります。我を忘れるとは、恍惚に陥ることではなく、早く効かせたい、上手いと思われたい、という我が、手の前から一歩退くことです。私は自分の論考の結びに、信じながら決して怠らぬこと、と書きました。美しい思想は、現実との接続を失った瞬間に、人を傷つけます。指圧は、医療の診断や治療の代わりではありません。

さらに詳しくは、書籍の終章に書いています。

図版について

スライド中の解剖図は、パブリックドメインの図版をもとに、講師が加工したものです。 指圧圧点の図は、鈴木林三『臨床のための基本指圧』(1996)より、 ご遺族の許諾を得て掲載しています。 末尾の写真は講師の手持ちのものです。

お読みになる前に

ここに置いたのは、ある大学の講義で用いたスライドと、その解説です。 指圧という手技についての教育的な内容であり、 指圧は、医療の診断・治療の代替ではありません。 特定の疾患の診断・治療・予防を目的とするものでもありません。 気になる症状のある方は、医療機関にご相談ください。

本文では、確かめられたことと、まだ仮説の段階にあることを、書き分けています。 断定を避けている箇所は、避けるだけの理由があってそうしています。

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